国産松茸を年に一度はご家庭で!

松茸談笑

高安といえば、犬の宮、猫の宮で知られる村であるが、それだけではない。松茸がすぐ裏山から採れるのである。
昔は、松茸が豊富な年は売り先さがしに難渋したという。勿論、都会へは交通の便が悪いので送ることができず、地方だけに売りさばいたものだったという。しかし、明治三十三年に初めて奥羽線が開通してから販売も次第に容易になり、松茸の価格は一層上向いたそうである。また、明治の末期頃より大正にかけては、村の山をいくつかの組に分けて、希望する人々を組分けして「守り山」を行ったと聞いている。このような時代に起きた次のようなエピソードもある。
場所は上原山で、松茸の出盛りに、仲間と夜番をしているところへ、「本名世間(よま)」という者が入山した。こちらは五人組だから、兼ねて今夜あたり確か来るらしいと待ち構えていたところに、夜十時頃「がん燈」をつけて入ってきた。世間は灯りを下ばかり照らしていたが、時折、上の方や横の方にも光がみえたという。やがて出盛りの出場に着き、手さぐりでも採れるように大きくしていた松茸を取りはじめたところを五人衆に取り押えられ、松茸の木を燃やして蚊いぶしをされた。さすがの世間も、わめきながら「命ばかりは助けて」と、今度は決して来ないと謝った一幕もあったそうである。この様な話が方々に広まり、次第に当時の盗人が来なくなったと言われている。
いずれにしても、昔は今のように、小さいものは採らず、良く番をして大きくして採ったので数量が多かったのだろう。
やがて時代が変わり、「村守り」から「個人守り」となったが、いずれにしても松茸は昔も今も、秋の村人の味覚の楽しみをもたらした。

(佐藤 仁)

(補記)
東置賜郡史によれば「慶安二年(1649年)の文書に『-有佐田山(元和田地内)根津・千石之松茸一本也盗取候者あらば見合とらへ、米沢へ注進申すべく-』云々」とあることから「守り山」は340年も前から続いていることになる。

高安誌 平成4年1月15日 高安長生会発行